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大宝寺の歴史

師崎にご上座された弘法大師が、知多の地を布教伝導と修行をされながらまわられた際、岩屋の地から小野村、久村を過ぎ、峰づたいに名切村へ向かう途中。湧き出る山清水の美味しさにしばらく休憩され、書を書く為に水を持ち帰った事から、硯石大師霊場として知られる様になりました。

  硯石大師霊場として古来より多くの信仰を集めていた霊泉のあるこの地に、文化六年(1809)半田市小栗万蔵次女、好堅尼によって開かれたのが大宝寺です。

  古来より霊泉の聖水は眼病に効くと伝わっており、昭和の時代までは目薬として点眼されておりました。

明治時代には中興の祖と言われた四代目住職、大円準法尼和尚によって大いに賑わい。毎月の大師忌や、燈明講、子安地蔵講、念仏講等、多くの信者が来寺されておりました。

 文化六年に知多新四国八十八箇所霊場が開創されてから菅生山名切弘法として認知されていましたが、昭和十六年(1941)の宗教団体法の実施の際、正式に菅生山 大宝寺となりました。

 記録によれば、当時の住職、本寺、世話人方が相談の上、同じ山号と札所番号であった本四国八十八箇所霊場の菅生山大宝寺様にあやかり命名したと書かれています。

大宝寺は愛知県南知多町内海を通る県道276号線より名切地区に入った奥に建立されています。

 隣りの民家まで300m離れているこの地に、多くの参詣者の皆様がバスにて大宝寺まで来山いただける様、人しか通れなかった道を戦後拡張致しました。

 この拡張工事は6代・7代住職の尽力をはじめ、名切地区の住民の皆さんや信者さん、当時の行政の方々により大変なご協力をいただいて成し遂げられたと記録されています。

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